不妊はつらくなよ、楽しみながら治療しようよ、って内容だと思っていたんだけど、なんかちょっと違っていた。著者はそういう気持ちで書いたのかもしれないけど、微妙に違う。その違和感の原因は、最後のところで明らかになる。赤ちゃんはできない、でもふたりで生きていくことにするわけでもない、治療を続けるわけでもない…。これって、不妊以前の問題ではって気もする。
著者は不妊というちょっとネガティブなイメージの言葉を「お不妊」と言い換えて、ユーモラスに、深刻にならずに治療していくことを訴えている。病院で出会った不妊仲間との交流や、周りの人からの言葉に傷付いたことなど不妊治療での辛さと楽しさを綴っている。
いままで、いくつかの治療記を読んで、共通するのはみんな「成せば成る」「がんばれば報われる」という考え方で、まじめに一生懸命、不妊治療に取り組んでしまい、それが為に自分自身がどんどん追い込まれてしまうタイプ。妊娠というのは、「成せば成る」ものではないらしい。著者はこういう風に追い込まれちゃうタイプのことを「カルトお不妊」と名付けた。カルト教団にはまってしまう人のように、周りの人のまっとうな意見も聞けなくなってしまう危険があるらしい。なるほど。
この本、なんか物足りないなぁと思ったら、治療の細かい記録がないのだ。不妊に対する思いとか、不妊治療を受けている人の気持ちとか、そいうのは書かれているのだけど、客観的な治療の記録がない。どんな検査をするかなどは書かれている。でも、7年間の治療のどの時点でどんなことをしたのかという、この人の軌跡はよくわからない。そもそもそんな記録を取ってなかったのかもしれない。
お不妊は何を言われても傷付く。子どもの写真付きの年賀状に傷付くというのはよく聞く。だからそんな年賀状はやめろと言うお不妊は多い。この著者もそう。だけどね、私なんか独身子どもなしだけど、友人の子どもの写真付き年賀状、けっこう楽しみにしているのだ。自分に子どもがいないから、人の子の成長が楽しみ。人の子どもの写真が傷付くのなら、独身者にとっては、「結婚しました」っていうラブラブな年賀状だってかなり傷付くぞ。傷付きつつも、やっぱり友人の夫の顔は気になるから、報告だけで写真がない年賀状だとちょっとがっかりするのだ。お不妊が訴える、子どもの写真付き年賀状廃止論には反対!
お不妊は他人の子どもにも敏感。子連れ親子を羨ましげに見る。でも見るのが辛い。幸せそうな妊婦が憎たらしい。そういう気持ち、ものすごくよくわかる。わかるのだが、なんか違わないか。お不妊はもしかしたら、妊娠する可能性もあるわけで、立場が逆転するかもしれないのだ。数ヶ月後にはお不妊仲間から羨ましげに見られ、憎たらしげに見える妊婦になる可能性もあるのだ。でもやっぱり「私にできなくてなぜあの女に…」って思っちゃうんだろうね。
そういう理不尽は本人たちが痛切に思っているだろうから、横から言ってはいけないことかもしれない。だから、言われると余計に傷付いてしまうのかもしれない。お不妊はデリケートなのだ。
夫婦で本当に子どもが欲しいという気持ちがあって、治療に前向きならば、不妊治療はつらくないと思う。だけど、治療に対する思いが、すれ違っているとうまくいかない。もし、うまく子どもができたとしても夫婦間の溝というのは埋まらない可能性もある。子どもができて解決する問題もあるだろうけど、解決しない問題や、新たな問題が出てくることだってあるだろうから、やはり夫婦で意思の疎通ができているかどうかというのは重大な問題だ。子どもができても、夫婦仲が悪かったらその子どもが可哀想。
この著者は、最終的に子どもができなかった。しかし、結果的にできなくてよかったと思っている節もあるので(治療中は本当に欲しいと思っていたのだろうけど)、本当に切実に子どもが欲しいと思っている人にはあまり励みにならないかもしれない。それどころか、最後の結末で裏切られたと感じるかもしれない(私はそう思った)。でもカルトお不妊にはまりこまないように、という忠告には実感がこもっているので、同じような境遇の人には参考にはなるかも。 |