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愛ゆえに◆『コバルト風雲録』 [2006年03月28日(火)]
コバルト風雲録
久美 沙織(著)
本の雑誌社
¥ 1,575
[単行本] 19cm x 13cm , 285P
2004-10 / ISBN:4860110382

久美沙織と言えば、私の青春の1ページ。確実に私の精神成長過程に於いて影響を受けた作家の一人である。その久美沙織の半自伝的エッセイ。いや、青春時代に一世を風靡したあのコバルト文庫の歴史をひもといた(暴露した?)作品なのか…。

いやぁ、この文体。懐かしいというかなんというか。当時の作品、そんなによくは覚えていないのだけど、確かにこういう雰囲気というかオーラはあったな、という感じ。文体なんかもちょっとは変わっているんだろうけど、久美沙織はあくまで久美沙織なのだった。

で、大人になった今、久美沙織を読むと、というか、この本を読んで思ったのだけど、この人はもしかして職業的モノカキというものには向いていないのかもしれない。本が好きで、書くのも好きで、小説もそこそこ(というかとりあえず本屋に並ぶレベルのもの)は書けるけれど、職業的モノカキとしての資質はあまりないような気がする。それは、実力うんぬんよりも、性格の問題で。

だってね、コバルト時代に熾烈な人気争いを勝ち抜くためにはファンレターの数というのがかなり重要だったらしく、彼女、必死でその返事を書いていたらしい。来たファンレターの返事を書いて、その返事にまた返事を書いて…。とりあえずそれで人気を維持して連載も続いているわけだから、新規のファンレターというのも当然増えて、それにも全部返事を書いていたらしい。するとどうなるか。ファンレターの返事を書く時間が増えて作品にかける時間が減ってゆく…。

ばかだ、この人。木を見て森を見ずというか、大局を見られないというか。そんなちまちましたことしているよりも、よい作品を書けば、自然とファンはついてくるものだ。(たぶん。)

もちろん、それが苦でなければファンレターの返事書きもよいのだろうけど、明らかに、本来の仕事である小説を書くという行為からははずれてる。

これでなにを思い出したかというと、昨今のブログ事情(ペット限定かも…)。特に私が書いている楽天ブログで顕著な現象なのかもしれないけど、コメントをつけてくれた相手にコメントを返すということが日常化しているようなところがあって、いや、それは人によりけりで必ずしもそうではない人ももちろんたくさんいるのだけど、一部の人たちはそうなのだ。

ま、お返事をしたいというのは人情としてよくわかるので、それはいいのだけど、そうなると他人のブログにコメントをたくさん書くと、自分のブログにもコメントが多くなる。そしてそのお返しにまた人のブログにコメントをつけてくる。するとまた自分のブログにコメントが増える…。きりがない…。

しかし、これで多少アクセス数が増える。それは確か。でも、その増え方には限界があるのだ。本当に、根本的にアクセス数アップを狙うのだったら、一番の近道は内容の充実なのだと思う。いかに、「コメントをくれない読者」を増やすか、というところが重要。

小説もそうだと思うけど、ファンレターをくれる人というのは実は読者全体のほんの数%だろう。たぶん、一ケタ台。大部分の読者はファンレターなんて書かないのだ。だから、その数%に向けて濃いおつきあいをしたところで、小説の、本当の人気が上がることはない。それよりも、ファンレターをくれない大部分の人が満足する内容の作品を書けば、自然と口コミやらマスコミやらで広がって本の売り上げは伸びるはずなのだ。

ウェブサイトにしても同様で、アクセスアップの手段として、SEOだとか検索エンジンにいっぱい登録するだとか、掲示板で宣伝するだとか、メールマガジンを発行するだとかいろいろあるのだけど、いくら宣伝してもそのサイトの内容が貧弱だったら、訪問者は二度とそのサイトを訪れない。最低限の宣伝は必要かもしれないけれど、宣伝に時間を取られるのなら、その時間を使ってサイトの内容を充実させたほうがいい。よいサイトなら自然に人が集まってくるのだ。

ブログやサイトを個人で趣味の範囲でやっていて、アクセス数なんて関係なくて、本当にコメントのやりとりが楽しい、個人的なやりとりこそ醍醐味、という人ももちろんいる。それはそれでいい。

ただ、小説家はそれをやってはいかんだろう。職業としてモノを書いているのなら、まずはよい作品を生み出さねば。ファンとの交流はそのあとにしたほうがいいのではないだろうか…。まぁ、やがて久美さんもそのことに薄々気付いて、「年賀状のお返事は書きません」宣言をしたらしいのだが、もっと早く気付けよ! と思った。

ちなみに、ブログのコメント、私は最近は自分の気持ちに素直にやることにしている。読みたいブログを読んで、コメントつけたいときにはつけて、書けないときには書かずに読み逃げ。最優先は自分の日記、というのを決めないと、ほんと、きりがない。私の場合はどちらかと言えば、人の日記を読むことよりも、自分の日記を書くことのほうが楽しいのだ。だから、書くこと優先。逆に、人の日記を読むことが生き甲斐、という人もいるようなので、そういう人にはどんどん読みに来て欲しいもんだ。

さて、久美沙織。私がこの人の本を最初に読んだのが、たぶん『ありがちのラブソング』。これ、初期のパソコン通信を扱った小説なのだ。その頃はまだ一部の人のモノだったパソコン通信が小説で重要なアイテムとして使われていた。これを読んだとき、私は感動したのだった。ほんとに。この人はスゴイと思った。私にとって、パソコン通信はまだ憧れの域を出ておらず、そんなもの使うことすら出来なかった。久美沙織の小説にちょっとだけ、大人の匂いを感じたのだった。

そして、大ヒット作の『丘の家のミッキー』。『ありがちのラブソング』とどっちが先に書かれたのか分からないけど、読んだののは『〜ミッキー』が後。どうやら当時から「おかみき」と略されていたようだけど、私の周りではそんな略称で通るほどのフィーバーではなかった(と思う)。めるへんめーかーのイラストが私のツボでもあった。純愛小説だと思っていたけど、作者としてはそういう意図で書いたのではなかったらしい。

その後『鏡の中のれもん』。これは禁断の近親相姦もの(だったはず)。あの、『丘の家のミッキー』の作者がこんなものも書くんだ! と衝撃的だった。しかし、作品の好き嫌いは別にして(『〜れもん』は正直、あまり好きな作品ではなかった)これで私は久美沙織をますます、タダモノではないと思ったのだった。

しかし、この本を読んで初めて知った。『ありがちのラブソング』は一般読者受けしなかったらしい…。『鏡の中のれもん』を書いた頃から久美沙織はコバルトを去る決意を固めていたらしい(だから反コバルト的内容を書いたのか…)。

『丘の家のミッキー』のキスシーン論争(?)についてはどっか他で読んだが、ここにも詳しく書かれていた。作者的にはキスなんてしなくてもよかったのだけど、読者からの「ふたりはいつくっつくのか」という熱い要望に応えて、考えに考えて書いたキスシーンに対してファンから強烈な批判の手紙がたくさん来たという。「女の子からキスするなんてありえない!」という内容。そうかぁ?? 作者がそう書いたのだから、いいんじゃないかと私などは思うし、そのシーンを読んだときにも別に何とも思わなかった。逆に、このふたりならそう言うこともあり得るかも…くらいに思ったかもしれない。今となっては全く覚えていないけど。

それで、ファンからの批判に久美沙織は深く悩んでしまったらしい。「あんたたちが見たいって言うから必死に考えて書いたのに、批判されるなんてヒドイ!」って感じかな(そうは書いてないけど、要約すると)。その気持ちもわからんでもないが、小説家なら「私がそう書いたんだからそうなんだ」と開き直ってもらいたかった。というよりも、それが小説家なのではないかと思う。

まず、読者の要望に応える、という時点でちょっと間違ってるのかも。自分の書きたいモノ、書けばいいじゃん。読者に媚びなんて売らないで欲しい。そして、もし媚びを売るなら、徹底的に媚びを売って欲しい。読者が求めているモノを書けばいい。つまり、この場合なら、かっこいい男の子からロマンチックなシチュエーションでウブな女の子がキスされる、というシーン。どうやら、これをやっていたのが花井愛子らしい。

当時、ティーンズハートというコバルトと並ぶシリーズがあったけれど、花井愛子はその筆頭だったはず。私にはあの、余白だらけ、句読点だらけのスカスカ小説(すみません)がどうにも我慢できなかった。どれも似たような話だった気がする。でも人気があった。読みやすくて、読者受けする内容だったからだ。我慢できないと言いつつ、私も友人から借りて数冊は読んだ(だってすぐ読めちゃうんだもん)。

『コバルト風雲録』に彼女の言葉が紹介されていた。「私が書きたいものなんてないわ。読者が読みたいものを書くだけ」と言ったとか言わないとか。それがホントなら、これはこれですごい職業意識だと思う。需要があるから供給があるのである。読者の欲求を満たす作品をちゃんと書ける、というのはある種才能だと思う。

しかし、久美沙織にはそれは出来なかった。彼女流に言えば、小説に対する愛が強すぎた。書くときは本気で書くのだ。自分の書きたくないもの、作品として満足できないものは世に出したくなかったらしい。

それでコバルトを離れて、ドラクエのノベライズやらSFやらに鞍替えしたらしい。その頃私は、コバルトからいなくなってしまった久美沙織の行方が気になって、「いったいどこへ行ってしまったの〜?」と思っていたのだった。

ドラクエのノベライズ、読んだことないのだけど、どうやらものすごく情熱をそそいだらしい。これって、子ども向けだと思うんだけど。ゲーム制作者側との折り合えも付けなきゃならないし、ゲームの内容に則した内容でないといけないし、いろいろ制約が多かったらしい。敵の怪物(?)の色について、ゲームに登場する通りの色でないといけないのだけど、どうしてもその色を表すかっこいい表現が見つからなくて、宝石事典とか見たらしい。その結果、読んだだけでは何色かわからない表現になったらしい。…それって、どうなの。

どうもね、このドラクエのノベライズ、気合い入りすぎて複雑で濃厚なものになっちゃってたんじゃないかという気がする。子ども向けに、って簡単でわかりやすく書くってことはしなかったみたいね。

要するに、久美沙織的には、読者に合わせてわかりやすい作品を書くということができないらしい。私の全身全霊を注ぎ込んだ作品なのだから、これが分からなければ、それは分からない方が悪い。そんな思いがいつもあるみたいね。

それはさ、難しい演劇見せられてるのと一緒ね。ニナガワユキオなんて難しすぎてよく分からないんだけど、なんだかスゴイ人みたいだから、この人が演出している舞台はよく分からないけどなんかスゴイんだろうな…みたいな。

ニナガワユキオみたいに、それが本当にスゴイ人たちにスゴイ評価をされているならば別だけど、オイラたちはすごいんだぜ。これが分からない奴の文化レベルが低すぎるぜって思ってやっている人たちもいるわけで。久美さんがそうだと言うわけではないけど、やっぱり、エンターテインメントたるもの、ある程度のわかりやすさは必要。賞なんてもらってなくたって、面白いものは面白い。賞をもらっていてもつまらないものはつまらない。

自分が面白いと思うものを、こんなに面白いんだよって観客や読者にきちんと伝えられる人というのがプロだと思う。それには、媚びを売る必要はないけれど、その相手に合わせたわかりやすさで伝えるということも必要なんではないのかなぁ。

つまり、ドラクエの場合はその読者層であると思われる子どもたちにわかりやすい言葉で伝える(多少かっこ悪くても)ことが必要だったのではないかと思う。

読者を文化レベル、知的レベルの高い人に設定するならそれでもいいけれど、久美さんが「ウケ」たいと思っている読者たちに本当に「ウケ」るためには、ある程度は読者に歩み寄らなければならないのだと思う。

今回二冊続けて読んで思ったのだけど(一冊目は『45歳、もう生んでもいいかしら?』メディアファクトリー)、久美さんの文章って決して「美しい」日本語ではない。もっと言えば、「正しい」日本語でもないかもしれない。ご本人は、小説を書くときには「かっこよさ」を追求しているようで、「美しい」とか「正しい」とか言うのは二の次なのかもしれない。でも、どうせ書くなら美しく、正しい日本語を目指してもらいたいものだ。

お子さんも生まれたことだし、このあたりで絵本などに目覚められて、作風も変わってくることに期待したい。なにやらいっぱい批判めいたことを書いてしまったけれど、私は久美沙織のファンなのだ。だから、あの『ありがちのラブソング』を読んだときの感動をもう一度、と思っているのだ。

久美沙織作品、絶版になってるものが多いらしい。ここらで一発大ヒットが出れば、復刊も夢じゃないぞー。

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